金剛級装甲艦 (日本海軍, 1877)

提供: wiki31ja
移動: 案内検索

金剛級装甲艦(こんごうきゅう・そうこうかん Kongo class ironclads

概説

 戊辰戦争を経て発足した日本海軍の艦艇ははっきり言って寄せ集めでしかなかった。薩摩・長州・肥前などから献納された軍艦、接収された幕府軍艦、あるいは東北諸藩の軍艦などから構成されていたが、寄せ集めだけあって装備もまちまち、建造国も英国、米国、仏、独、蘭、さらには数少ない国産まで混じっていた。しかもその大部分はお世辞にも新鋭とは言えないものだった。明治7年、大規模な叛乱である佐賀の乱が勃発した。政府は大久保利通に全権を与えて鎮圧に当たらせたが、その過程で日本海軍の能力不足が露呈した。あたかも台湾出兵によって清国との関係が緊張したこともあって、財政事情の厳しい中であったが英国に新艦を発注することとなった。この時発注されたのは3隻、うち1隻はのち扶桑となる装甲艦で、残る2隻が金剛級装甲コルベットである。
 金剛級を設計したのはのちに英国造船総監となるエドワード・リードで、同種艦の中では最優秀と評された。構造は鉄骨木皮、水線部に装甲帯を装着している。武装は17センチ砲と15センチ砲、いずれも後装砲である。両艦が完成したのは明治11年になってから、日本到着は同年半ばとなり、西南戦争には間に合わなかったが扶桑と合わせてこの3艦は明治10年代前半の日本海軍の主力となった。2隻は明治20年代からしばしば遠航に充当されているが、明治23年にはトルコ軍艦エルトグロールが日本で難破したその生存者を送還するために遠航を兼ねてトルコにまで派遣されている。これは日本海軍の艦艇が自力で欧州まで足を伸ばした最初のケースとなった。日清戦争では比叡が本隊に附属して黄海海戦に参加しているが、すでに旧式となっていた比叡は特にその低速で本隊から落伍しがちとなり、清国艦隊の集中攻撃をうけてむしろ足を引っ張った感すらあったという。もはや金剛級のような低速で鉄骨木皮、低発射速度の砲しか装備していないような艦は戦闘の役に立たないことが証明されてしまった。戦後、両艦はマスト上部を切断して帆走装備を実質的に撤去、砲などの武装も一部換装して多少なりとも近代化されたが第一線からは完全に退き、舞鶴や鎮海、そして陥落後の旅順の警備といった後方任務についていた。戦後はもっぱら測量艦として各地を巡っていたが明治末に相次いで除籍。

主要要目

排水量: 常備 2200t
長さ: 垂線間長 67.0m, 水線長 70.0m
全幅: 12.4m
喫水: 5.3m
機関: 1軸 横置式2気筒二段膨張レシプロ 1基, 高円缶 6基 (石炭専焼), 2500ihp
燃料: 石炭 280t
速力: 14ノット
装甲: 水線帯 88-115mm
兵装: 17cm砲 単装3基 3門, 15cm砲 単装6基 6門, 1ポンド砲 単装4基 4門, 36cm魚雷発射管 2門 (比叡 1門)
乗員: 308

一覧

計画 艦名 建造所 起工 進水 就役 艦歴 記事
明8 金剛 Kongo 英 Earles 1875.09 1877.04 1878.01 1898.03.21 三等海防艦
1909.07.20 除籍
明8 比叡 Hiei 英 Milford Haven 1875.09 1877.06.12 1878.03 1898.03.21 三等海防艦
1911.04.01 除籍