知床級給油艦 (日本海軍, 1920)

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概説

水上機母艦能登呂

 大正の半ばごろ、日本海軍で水上機の母艦として運用していたのが元ロシア商船を捕獲した若宮である。若宮は第一次大戦のはじめに青島攻略で偉勲を奏するなどかなりの活躍を見せたが、なにしろ明治期の建造でこのころには老朽化が甚だしく、代艦が必要な時期に来ていた。ちょうどそのころ、大正6年に成立した八四艦隊計画で6隻建造された知床級給油艦のうち1隻を改造して水上機母艦とすることが決められた。これが能登呂である。能登呂に白羽の矢が立てられたのは、まずなんといってもその大きな船体(約1万4000トン)と、もともとタンカーであったために機関部が船尾に集中しており改造がしやすかったことにあった。能登呂は大正14年に水上機母艦役務を与えられ(艦種は運送艦のまま)、前後甲板に水上機を搭載するための天蓋を設けるなどその改造はかなり徹底したものだった。その結果は比較的良好で、のちに同様の要領により給油艦神威が水上機母艦に改造された。能登呂はまだ空母の整備が進まない昭和初期の艦隊航空戦力で重要な位置を占めており、昭和7年の上海事変や昭和12年の支那事変では空母に伍して地上戦支援を行なった。この間、昭和6年9月5日に軽質油の爆発事故により多数の犠牲者を出している。昭和9年には艦艇類別標準の改正により新設された水上機母艦に類別変更された。能登呂の航空機搭載能力は、改造当初は常用3機補用1機に過ぎなかったがのちに倍増されて最終的には常用8機となった。支那事変を最後に第一線からは退き、整備が進んだ空母群や特設水上機母艦などに任務を譲った。やがて航空機搭載設備を撤去して航空機運搬または重油輸送のために用いられるようになる。昭和18年9月にはトラック沖で被雷損傷、昭和19年6月にはシンガポール附近でやはり雷撃を受け損傷している。この修理中の昭和19年11月、米軍機の空襲を受け大破、以後浮き重油タンクとして用いられたまま終戦を迎え戦後処分された。

主要要目

給油艦

排水量: 基準 14,050t, 常備 15,450t
長さ: 垂線間長 138.7m, 水線長 143.5m
全幅: 17.7m
喫水: 8.08m
機関: 1軸 直立式3気筒三段膨張レシプロ 1基, 4 円缶(石炭専焼)(石廊 艦本式水管缶), 5500ihp
速力: 14ノット
燃料: 石炭 1350t, 重油 1000t
兵装: 14cm/50口径平射砲 2門, 8cm高角砲 2門
乗員: 160

能登呂 水上機母艦

排水量: 基準 14,050t
長さ: 垂線間長 138.88m
全幅: 17.68m
喫水: 8.08m
機関: 1軸 直立型3気筒三段膨張レシプロ 1基, 円缶 5基 (石炭専焼), 5850ihp
速力: 12ノット
兵装: 8cm/40口径対空砲 2門, 航空機 8機
乗員: 250

一覧

計画 艦名 建造所 起工 進水 就役 艦歴 記事
大6 知床 Shiretoko 川崎造船所 1920.02.16 1920.07.17 1920.09.20 (運送艦) 1945.02.01 戦没
1945.04.01 除籍
航空攻撃/シンガポール
大6 能登呂 Notoro 川崎造船所 1919.11.24 1920.05.03 1920.08.10 (運送艦) 1934.06.01 水上機母艦
1947.01.12 処分
1947.05.03 除籍
大7 襟裳 Erimo 川崎造船所 1920.05.03 1920.10.28 1920.12.16 (運送艦) 1942.03.04 擱座放棄
1947.05.03 除籍
触雷/バリ島沖
大7 佐多 Sata 横浜船渠 1920.03.06 1920.10.28 1921.02.24 (運送艦) 1944.03.30 戦没
1944.05.10 除籍
航空攻撃/パラオ
大7 鶴見 Tsurumi 大阪鉄工所 1921.03.10 1921.09.29 1922.03.14 (運送艦) 1944.08.05 戦没
1944.10.10 除籍
被雷/ダバオ南方
(米潜 Cero)
大7 尻矢 Shiriya 横浜船渠 1921.04.07 1921.11.12 1922.02.08 (運送艦) 1944.09.21 戦没
1944.10.10 除籍
被雷/台湾北方
(米潜 Trigger)
大7 石廊 Iro 大阪鉄工所 1921.09.02 1922.08.05 1922.10.30 (運送艦) 1944.04.17 戦没
1944.05.10 除籍
航空攻撃/パラオ