扶桑級戦艦 (日本海軍, 1914)

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扶桑級戦艦(ふそうきゅう・せんかん Fuso class battleships)は、日本海軍艦艇のタイプ。日露戦争臨時軍事費および大正2年度計画により2隻が建造された。日本海軍の戦艦としては最初の超弩級艦。12門の36センチ主砲を6基の連装砲塔に収容して艦体にまんべんなく配置したため機関の配置が苦しくなり、度重なる改装にもかかわらず25ノットにも満たない低速しか発揮できなかった。基本計画番号はA64。

概説

 弩級艦時代に乗り遅れた日本海軍は、超弩級艦時代に入るや、それまでの遅れを取り戻すべく怒濤の建艦を開始した。その第一着は一番艦を英国に発注した金剛級巡洋戦艦であるが、この建造が順調に進み出すと、これと対をなす戦艦の建造に着手した。これが扶桑級戦艦である。扶桑級は金剛級と同じ36センチ砲を主砲に採用したが、金剛級ではこの連装砲塔を4基搭載していたのに対して6基搭載し攻撃力は実に5割増し、防御力も金剛級より強化された。その代償として速力は22ノットにまで低下した。6基の砲塔はすべて中心線上に配備され、前後に2基ずつ背負式に配置、中心部に2基置かれたが、艦橋の直後に缶室と三番砲塔、また缶室をはさんで四番砲塔、さらに機械室をはさんで五番六番砲塔を置いた。つまり、砲塔とその直下の弾薬庫によって缶室や機械室といった機関部が分断されることとなった。また砲塔が前後にわたってまんべんなく配置されたためにかえってその発射の爆風から遮られる箇所がなく、艦載艇などの諸設備の配置に相当苦心した。扶桑級は一番艦扶桑と姉妹艦山城とからなっているが、両艦の完成直後もしくは直前に第一次大戦中最大の海戦が生起した。ジュトランド沖海戦である。この海戦により様々な戦訓が得られたが、ひとつは速力の遅い旧式の戦艦は実戦の役に立たないこと、もうひとつは遠距離砲戦では甲板の防禦が非常に重要であることである。このいずれも扶桑級の弱点であった。つまり、扶桑級は完成直後にして二流艦となってしまった。扶桑級は全艦にまんべんなく砲塔が配置されていたため、新装備を追加装備する余地がなかった。扶桑に飛行機を装備することになったとき、本来後ろ向きであった三番砲塔を前向きに固定位置を変更し、砲塔天蓋上に射出機と飛行機を搭載することとなったが、このためただでさえ狭かった艦橋基部がさらに狭くなり、ひどく安定を欠くシルエットとなった。山城においては航空兵装は艦尾に配置され、三番砲塔は後ろ向きのままで、両艦を識別する大きなポイントとなっている。扶桑級は、数少ない戦艦として常に主力艦隊に配備されつづけてきたが、戦艦の中ではもっとも軽んじられてきた。
 軍縮条約が失効したのち、扶桑級は弱点である防禦の強化と速力の向上を図った。防禦の強化は必ずしも満足のいくものではなく、速力も缶や機関の換装、艦尾を延長して船体をできるだけ細長くする(延長された艦尾には航空兵装が配置された)などできるかぎりの対策をほどこしたが辛うじて24ノットを超えたに過ぎなかった。ただし、速力24ノットは不満足ではあるが、主敵米戦艦の速力はせいぜい21ノット前後であったため、当時はそれほど大きな問題にはならなかったようである。太平洋戦争が始まると第一艦隊に編入されていた扶桑級は、「主力部隊」として内海西部に待機を続けた。と言えば聞こえはいいが、実態は使いみちがなくもっぱら練習任務についていた。第一艦隊でも所属の水雷戦隊や高速戦艦戦隊は南方に進出して激闘を繰り広げる中、扶桑級はトラックに進出することもなく航空隊の爆撃訓練目標となるなどほとんど練習艦として使われていた。この間、ミッドウェー海戦における空母喪失にともない、扶桑級を空母に改造するとか、後半部を飛行甲板にした航空戦艦にしようという案があったが、資材と工期のわりに効果が少ないとあって実現しなかった。第一艦隊は昭和19年初頭に解隊され、扶桑と山城はGF附属となった。いよいよ実戦部隊失格の宣告を受けたと言えよう。しかしまさにこの時期、米軍のマリアナ進攻を目前にして扶桑級も実戦にさらされるようになった(1Fの解隊もこれにともなう処置である)。扶桑と山城はシンガポール、ついでフィリピンに進出、米軍の来攻を迎え撃つことになったが、そこに起きたのがニューギニア北西端ビアク島への米軍上陸である。ここを占領されてはフィリピン南部が米軍機の行動圏に入ってしまう。そこでビアク増強のための逆上陸作戦が企図され、扶桑がそれに参加することになった。決死の逆上陸作戦であったが、幸か不幸か米軍のマリアナ進攻が開始されてこの作戦は中止、扶桑は機動部隊とともにマリアナへ押し出すことになる。この海戦で日本海軍の戦闘力はほとんど壊滅したが、扶桑級はことなきを得た。米軍はマリアナを得てフィリピンへと地歩を進めようとしていた。日本海軍は残る兵力をつぎ込んで迎え撃つ。扶桑級も例外ではなく、第一遊撃部隊の一員として出撃した。しかし、低速の扶桑級は主隊には追随できず、しかもレイテ湾突入は一刻も遅れることができないため短距離のスリガオ海峡経由で突入することとなった。結果として南北から呼応してレイテ湾突入が図れることとなったが、そんなものは後づけの理由に過ぎない。主隊が米機動部隊の集中攻撃を受けて定刻通りの突入ができなくなったにもかかわらず、西村中将率いる別働部隊は予定通り突入を決行した。しかしそこには、戦艦6、巡洋艦8、駆逐艦魚雷艇多数からなる米艦隊が待ち構えており、そこに一本棒で突っ込んでいった西村部隊はわずかな時間で壊滅、扶桑も山城も撃沈された。扶桑は艦長以下総員戦死して生存者なし、山城も生存者はわずか数名であった。

主要要目

竣工時 (1915)

排水量: 常備 30,600t(山城 34,700t), 満載 35,900t(山城 39,154t)
長さ: 垂線間長 192.1m, 全長 202.7m
全幅: 28.7m
喫水: 8.7m
機関: 4軸 ブラウン・カーチス式タービン(高中低圧) 2基, 宮原式缶 24基 (混焼), 40,000shp
燃料: 重油 1026t, 石炭 5022t
速力: 22.5ノット
航続力: 8000海里/14ノット
装甲: 水線帯 100-300mm, ケースメート 150mm, 砲塔 200-300mm, バーベット 200-300mm, 司令塔 300mm, 後部司令塔 150mm, 甲板 30-75mm
兵装: 36cm/45口径砲 連装6基 12門, 15.2cm/50口径砲 16門, 8cm/40口径高角砲 4門, 53cm 魚雷発射管 6門 (水中)
乗員: 1193

改装後 (1935)

排水量: 基準 34,700t, 公試 38,536t
長さ: 水線長 210m, 全長 212.75m
全幅: 30.64m
喫水: 9.69m
機関: 4軸 艦本式減速タービン(高中低圧), ロ号艦本式缶 4基, ハ号艦本式缶 2基 (重油専焼, 空気予熱器付 20kg/cm2 飽和蒸気), 75,000shp
燃料: 重油 5100t
速力: 24.7ノット
装甲: 中甲板 100mm, 上甲板 50mm
兵装: 36cm/45口径砲 連装6基 12門, 15.2cm/50口径砲 14門, 12.7cm/40口径高角砲 連装4基 8門, 25mm対空機銃 16門, 航空機 3
乗員: 1396

一覧

計画 艦名 建造所 起工 進水 就役 艦歴 記事
日露臨 扶桑 Fuso 呉工廠 1912.03.11 1914.03.28 1915.11.18 戦艦 1944.10.25 戦没 (交戦)
1945.08.31 除籍
スリガオ海峡
大2 山城 Yamashiro 横須賀工廠 1913.11.20 1915.11.03 1917.03.31 戦艦 1944.10.25 戦没 (交戦)
1945.08.31 除籍
スリガオ海峡